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思うこと

2012年6月22日 (金)

友人の入院 (5)

友人が退院した。

結局、オキシコンチン、リリカ、オキノームを組み合わせての痛み対策を継続することになった。
あれだけ苦しんだ痛みが少しでも軽減されて退院できたことは、良かった。

でも、退院した翌日から職場復帰なのだ。

今回の入院で使ってしまい、今年度の有休はあと1週間分しかないそうだ。これは今年度中に外来診療を受けるためにとっておかなければならない。

「欠勤」は年間4日しか認められず、そのたびに1万数千円が給料から引かれ、さらには、その年度の勤務は通算の勤続年数に入れられないという。

このルールを厳格に適用されている彼女は、その、比較的新しい会社で初めての「がん患者」なのだという。「調子が悪そうだから午後から帰りなさい」と社長に言われて帰ったとしても、「半休」はしっかり差し引かれる。

今後その会社に「がん患者」が出たとき、彼女のケースが前例となる。

がんであっても、働かなければ生きていけない。再発治療はエンドレスに続く。治療費も高額である。

「あ~まだ働けると思ったよ」と、職場復帰の翌日に彼女からメールが。「でも今後動けなくなることも考えて、いろいろと今後のことを決めていかないとね。」

彼女が少しでも長く、その会社で勤め続けることができるよう、心から願う。今、私は再発も転移もなく、勤務をすることができている。私たちのように動ける人間が、何かをしていかなければ、とも思う。でも、体力は確実に落ちているので、私自身も仕事を続けることで精いっぱいであり、何かの活動にコミットしようという勇気もなかなか出ない。いつか…とは念じているのだが、忸怩たる思いだ。

2012年6月10日 (日)

友人の入院 (4)

友人の状況が少しずつ落ち着いてきた。

まず、リリカが1日3回、毎食後。オキシコンチンが20ミリグラムを朝9時と午後9時。そして、レスキューとしてオキノーム。

それ以外には、ロキソプロフェン&胃薬、睡眠導入剤、軟下剤。

リリカでは朦朧とする、リリカでは痛みが押さえきれない、リリカを飲んでいるのになぜオキシコンチンは減量にならないの等々、彼女の疑問は途切れなかったが、主治医というよりは、看護師の根気強い説明をだんだんと理解できるようになり、それにともなって、痛みのコントロールができつつある。

昨日はようやく吐き気止めの点滴(ほぼ24時間)がはずれ、少し病院の中を歩けたそうだ。でも、あまりにも体力が落ちていて愕然としたと。

でも、それにしても、よかった。1週間前を考えると、格段の進歩!これから、少しずつ、社会復帰に向けて準備していける気がする。また一緒に乳がんのシンポジウムに参加したり、RFLを歩きに行ったり、できる気がする。

一歩一歩、足を前に出して行こう。私も一緒に歩むから!

2012年6月 6日 (水)

友人の入院 (3)

昨夜も面会に。そっとカーテンを開けると、こちらをみて笑っていた。
「起きてる顔を久しぶりに見たよ」と悪口を言いながらベッドサイドに座る。

朝の痛み止めがリリカになった。リリカでももうろうとなってしまったらしい。
「最悪のまま車椅子に乗ってリニアックに行ったよ。台に上がれないかと思った」とのこと。やっとの思いで放射線治療を終えて、午後から眠ったらしい。

「午後からすこしはっきりしてきた。リリカもだめみたい」
オキシコンチンで嘔吐して、リリカでもうろうとしていたら、痛み止めが・・・。

きっと自分に合った薬の組み合わせと量がわかってくるから、ここは我慢のしどころ。

「このままだと仕事に戻れない」と、すでに職場復帰を思っている彼女。
少し調子が上向いてくると、考えるのは日常生活に戻ること。
何とか、その日が1日でも早く来てほしい。

「早く全快祝いをしようよ」と励ましたつもりが、直後に、「退院祝い」と言えば良かったと後悔する。彼女は「そうだね」と表情を変えない。

ステージIV。リンパ節転移、骨転移(胸骨と頸椎)、胸膜播種。痛みを抑えて今までの暮らしに近い過ごし方ができるように、誰にでもいいから、お願いしたい気持ちです。私の大切な、大切な友人なのです。

2012年6月 5日 (火)

友人の入院 (2)

毎日病院に行っている。
仕事帰りなので、面会時間終了ぎりぎり。
昨夜も寝ているばかりだった。汗をかいている。
それでも、ほんの2分くらい目を覚ました。

「今朝、○○先生が来てくれて、薬の調整は、誰にとっても試練なんだよって言われた・・・。」
オキシコンチンとオキノームをどのくらい飲んだときに痛みが適切にコントロールでき、意識もはっきりし、そして気持ちも悪くならないのか、それを見極めることは誰にとっても難しいことらしい。

「それから、××先生も来てくれたんだけど、こんな程度の量でこんなに具合の悪くなる人はそんなにいないって・・・。」

は? 同じ医師でも、言うことがまるきり違う。具合の悪い人の傷に塩を塗り込むような言い方はしないでほしい。

それだけ言ったら、また眠ってしまった。入院して1週間なのに、ずいぶんやせてしまった。眠り込む顎の線が直線的になってきた。

彼女ががんばっていることが私の支えだった。わかっていたけど、痛いほど実感する。

彼女のお嬢さんと話をする。「Furriesさんは、転移とか、されてるんですか?」と聞かれた。

「いや、ありがたいことに、まだです。」と答えてしまった。言葉の使い方がわからなくて、混乱する。

2012年6月 3日 (日)

友人の入院

私より1年前に乳がんになり、手術→再建と同様の道を歩んできたEさん。
私より少し年下だが、病気については先輩。
患者会で偶然向かい側に座ってから、急速に仲良くなった。
いつも励まし合ってきたのに。
リンパ節転移、肋骨への転移。しかし、頑張って仕事を続けていた。

1年前から背中の痛みが徐々に強くなり、ついに先週入院。
MRIの結果、頸椎の5番と6番に転移していることがわかった。
放射線治療が始まった。

しかし、オキシコンチンとオキノームでも痛みのコントロールができていない。
心配で、心配で。

今日も行ってきたが、汗をかきながら眠り続けている。
時々目をあけるが、またすぐに眠ってしまう。そして生あくびをする。

時々会って、ちょっとお酒を飲んで、励まし合うのが私たちにとっては
大切なことだったのに。

心配で、心配で。

2012年5月29日 (火)

3年クリアしました

しばらくブログを放置してしまいました。年度末仕事がとても忙しかったことと、大きなイベントが終わった後で気が抜けてしまったこともあります(・・・が、そんなことは理由になりません)。

更新がなかったあいだもたくさんの方に読んで頂いていて、本当にありがとうございます。

先月、発病3年を無事にクリアしました。現在は、ホルモン剤(アロマシン)のみの治療です。タスオミンから始めましたが、昨年2月に子宮筋腫摘出手術のときに子宮と卵巣をすべて摘出したため、閉経後治療となり、アロマシンへ変更となりました。タスオミンから数えて2年半。主治医からは5年続けて、そのときにどうするか考えようと言われています。

アロマシンは骨粗鬆症の副作用がありますので、次回の診察では骨密度を測ります。ホットフラッシュ、関節痛は相変わらずです。

でも無事に生活して、仕事に行けていることに感謝しています。これからも時々の更新となりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

2012年3月 4日 (日)

命をつなぐこと

1年前に同じ病気で旅立った友人におまいりするために、1時間半ほど離れた町まで行ってきた。仏間に通され、「Hさん、久しぶり…」とお線香をあげ、ひとしきり、頭の中で会話した。

彼女の一家は3世代同居。お孫さんが大きくなり、さらにご長男が5か月前に生まれたお子さんを見せに来てくれ、仏間はにぎやかな声で満たされた。

彼女は写真の中でやさしく微笑んで、そんな大家族を見つめている。おばあちゃんに見つめられて家族は安心して過ごしている。彼女が亡くなってから、おじいちゃんに胃がんが見つかり、全摘手術をした。そのおじいちゃんも、元気に出てきてくれ、「早いねぇ」と言いながら、仏壇のろうそくに火をつけてくれた。

命をつなぐことの温かさと、大切さを感じる1日となった。Hさんは、この家で少しずつ、少しずつ、毎日の暮らしから離れ、思い出の中だけで語られるようになるだろう。家族の涙は少しずつ減っていくだろう。

それが大事。大事なこと。家族が前を向いて進んでいく。Hさんのあたたかいまなざしのなかで。

心が温まったいい一日だった。

2012年2月12日 (日)

友達が旅立って1年

最初の入院のときに同室だったHさんが旅立ったのは、昨年の今ごろだった。

(彼女のことについては、このブログでも何度も書いている。)

Hさんは、2010年秋に友人と旅行。すでに、宣告された余命より長く過ごしていた。旅行から帰ってきてから急に体調を崩した。脳転移が増え、大きくなっていたそうだ。私は、その年末はほぼ毎日お見舞いに行っていた。いろんな話をしてくれた。子供の頃のこと。母親のこと。兄弟のこと。病気になってからのこと。仕事が終わって駆けつけて午後8時ころ。面会時間が終わる9時までの1時間が私たちの時間だった。いつも待っていてくれた。帰りがけにいつも「また来てね」と言ってくれていたのは、うそではなかったと思っている。

パートナーと一緒に行ったことが1度あった。彼は、私が入院しているときに毎日病室に来てくれていたのでHさんとは顔見知りではあったが、もう一度きちんと紹介したかった。その日、私がさきに病室について、あとでパートナーが来るというとき、私が彼を病棟のエレベータ前まで迎えに行ったことがあった。病室に戻ってみると、髪がほとんど抜けた頭にきれいなピンクの毛糸の帽子をかぶり、すこし上気した顔をして、にこやかに、パートナーを迎えてくれた。その気持ちが、うれしかった。

年末に退院して自宅療養となった。緩和ケアの病院も予約していたが、まず自宅に帰りたいという強い希望があった。左腕と左足が服が入らないほど浮腫んでしまい、退院のその日にたまたま私が毛糸のルームソックスをお土産に持っていったら、息子さんが、「いやぁ、助かりました。服のことは考えてましたけど、靴下まで考えてませんでした」と言って、その、クマさんのついた茶色いゆるゆるのルームソックスをはかせ、それから4人がかりで車椅子に乗せ、息子さんが玄関前につけた車になんとか乗せて、走り去って行った。

年が明けて、お正月に友人と一緒にご自宅にお見舞いに行った。本当はお酒が大好きだったHさん。お嬢さんが、「お正月だから」といって、350ミリの缶ビールを用意してくれていた。それを、4人で4つのコップに分けて飲んだ。彼女のコップにはさかずき1杯ぶんくらい入っていたかな。もう、話が時々ずれてしまうような感じだったが、ビールを一気に飲んで、「おいしい」と言った。お土産に持っていったイチゴ大福を「かわいいね」といってひとくち食べて、かみあわない話を1時間くらいして、「来月来るね」と、1ヶ月後の2月の6日にお見舞いに行く約束をして帰った。

その約束の1ヶ月後のその日が、彼女のお通夜になってしまった。友人と2人で参列し、帰りに、彼女の写真をテーブルに置いて、3人で、飲んだ。

もう1年がたつ。時間のたつののはやいことに驚くばかりだ。近いうちに、また2人でおまいりにうかがう。遠くに行ってしまったHさんだが、今でも私たちを見守っていてくれる気がする。ときおり、街中や、病院で、似た人を見かけることもある。そのたびに、Hさんは現実にはいなくなったと自分に言い聞かせる。彼女をそうやって思うたびに、悲しい思いと、温かい思いの両方を感じている。

2012年1月 5日 (木)

2012年最初の外来診察

朝からすがすがしい晴天。9時前に形成外科へ。朝9時の予約だったが、病院内にいることがわかったのか、通信機で8時50分に呼ばれた。もうすでに何時間も病院にいます、という感じのY医師。相変わらず忙しそう。当直だったのかしら。胸とお腹のケロイドが相変わらず良くならないことについては、とりあえず様子見。ただ、両胸に少しずつ感覚が戻ってきていることを報告すると喜んでくれた。ただ、左わきの無感覚については、「もう、それは、手術の時に神経が切れちゃっているからね」ということ。

また、再建手術後、湿疹や、炎症が以前より起きやすくなっていることを報告。現在は、手術のときのドレーンの穴の痕周辺がただれて、非常に痒い。ヒルドイド軟膏を処方していただく。「今年もよろしくお願いします」とあいさつして、今年最初の診察が終わった。

続いて、乳腺外科。こちらは、9時半の予約だったが、珍しく10時ころに呼ばれた。30分待ちは短い。昨年11月の浮腫クリニック受診の報告。明らかなリンパ浮腫でなかったことは、よかったですね、と喜んでくれた。また、「リンパ浮腫治療のマッサージは非常に奥が深いらしく、僕たちが習おうと思って、簡単に習えることではないらしいんですよね」とのこと。それゆえに、専門とするクリニックを紹介しているということだった。両胸、わき、鎖骨廻りなどを触診して、「はい、結構です。順調ですね。」とD医師。今回は触診のみで、検査はない。次回は4月半ばに血液検査と診察。4月というと、告知まる3年となるころだ。

関節痛がひどいことを訴えるが、「それは、薬の副作用の可能性が高いですね」と、しごく科学的な答え方。彼は、漢方などは処方してくれない。「漢方に詳しい先生なら処方されるのかもしれませんが、僕は…ですね」と、効果に疑問を持っている様子。この程度の関節痛は頑張って耐えないと…ということか。このおかげで、がん細胞が増えることが抑えられているのだから。

たくさんの外来患者が待っている待ち合いを抜けて、会計へ。ボランティアさんのテーブルの前を通る。私もいつか、この病院でボランティアをしたいと思っている。現在の仕事の忙しさではそれは難しい。週に1日はまるまる空けなくてはできないことだから。でも、本当に、いつか、ここで、エプロンをして、「ボランティアです」というバッチをつけて、この病院に来る患者さんたちのお手伝いをしたいと思う。

本日はアロマシン90日分とヒルドイド軟膏2本で、約17000円。今年も、この病院にお世話になりながら少しずつ体力をつけて、健康に近づいていきたい。

2012年1月 4日 (水)

2012年の初め。乳がんになって3回目のお正月

2008年秋の職場の健康診断で貧血がわかり、受診した内科でマンモを勧められ、数か月待って、2009年3月末に自治体のマンモ検査を受けたらなんと乳がん発覚。

2009年6月に両側乳がん全摘。8月からホルモン療法開始。

2010年2月に乳房再建手術(遊離皮弁)。9月に急性腎盂腎炎で入院。

2011年2月に子宮筋腫および両卵巣全摘手術。

気がつくと3回目のお正月を迎えていた。その間に同じ病気の友人を送り、新しく同じ病気の友人ができた。時間が確実に過ぎている。多くの方が書いていらっしゃるが、年末に片野あかりさんが亡くなったのはとても大きなショックだった。左側の図書欄でも紹介させていただいているが、彼女の生き方には学ぶことが多かった。今、彼女の姿はいなくなったが、彼女が残したものはたくさんの人々の胸のなかであかあかと燃えていると思う。お名前通りの輝きを私たちに残してくださったと思う。ありがとうございます。

さて、明日は新年最初の外来受診。形成外科と乳腺外科。年初めということもあり、きっと混雑しているのだろうな。また今年も新しいがん患者が次々とあの病院を訪れるのだろうな。参加している「ブログ村」も、新しい方がとても増え、登録しているブログも、私が参加したころのちょうど2倍の数になった。みなさんそれぞれにがんの顔つきは違うのだが、それぞれに考えながら一生懸命生きていらっしゃる。私も前向きに生きていきたい。

がんは大変な病気だが、大変な病気はほかにもたくさんある。「いのち」について一生懸命考えながら生きている人々と連帯する気持ちを持ちたいと思う。

そろって「がん」をかかえている、大切なパートナーも今年初めての受診がひかえている。仕事をなんとか抜け出して付き添いたいと思っている。今年も、「お互いに健康になっていきたいね」と気持ちを確認しあった。

パートナーは大みそかから元旦にかけて出張。遠くの地から、初詣に行ってきたよというメールがきた。私もいつもの天祖神社に初詣。「私たちを守ってください」と強くお願いしてきた。理解しあい、支えあう、人生の同行者として、彼を大切にしていきたいと思っている。

今年も不定期ですが、細々とこのブログを続けていきたいと思っています。思い出したら訪問していただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。

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