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2012年2月

2012年2月29日 (水)

遊離腹直筋皮弁による乳房再建から2年(写真集)

2009年6月に両側乳がん全摘手術と同時に、両側にエキスパンダーを挿入しましたが、1週間後に左側が感染して、退院した時には右側にはエキスパンダー、左側は何もなし、という状況でした。9月に再入院して、左側にエキスパンダーを挿入する手術を行い、その後、左右に定期的に水を足して膨らませていきました。

(1)2010年2月:再建直前(エキスパンダー入り)
左右に280ccずつの水が入っていますが、最初から右側が大きく、左側(感染した方)は小さく感じていました。また、右側が垂れ下がり左側は上に上がっています。写真では左右が反対になります。
2010_2

(2)2010年2月20日(術後5日)
私の術法では、エキスパンダーで胸の皮膚を伸ばしているので、腹部の皮膚は移植しません。ただ、この写真でわかるように、移植後の脂肪への血流が順調であるかどうかを確認するためにほんの少しだけ腹部の皮膚を残しています。これは、乳頭乳輪再建のときに除去されました。
2010_2_20

(3)2010年2月24日(術後10日)
抜糸したところです。脂肪は最初はとてもごつごつした感じですが、だんだんと柔らかくなります。
2010_2_24 

(4)2010年2月28日(退院直後)
内出血はだんだん良くなります。最初は驚きますが、大丈夫です。
2010_2_28

(5)2010年3月17日(術後1か月)
このころに、すでに左右のアンバランスがはっきりわかります。
Photo

(6)2010年5月7日(乳頭乳輪再建1週間)
 私は両側乳がんなので健側からの乳頭移植ではありません。他の場所から皮膚や骨を移植するのではなく、胸の皮膚を星のようなかたちに切って巾着のように絞り、盛り上げて形を作る方法です。あとでかなり沈むのでそれを見越してかなり大きく作っています。初めは注射器を輪切りにしたもので保護し、そのあとも自分なりに乳頭が沈まないような保護キャップをつけていました(過去のエントリーをご参照ください)。
Photo_2

(7)2010年7月13日(乳頭乳輪刺青完了)
 刺青は外来で終了。色がつくとかなり本物らしくなります。
Photo_3

(8)2012年2月15日(再建2年後)
 乳房再建終了から約1年半のようすです。はっきり言って、左右はかなりアンバランスです。エキスパンダー手術のころからあったアンバランスがずっと尾を引いています。右側(写真では左)はどちらかというと横長。左側(写真では右)は外側の脂肪の一部が体内に吸収されてしまったため、外側にふくらみがなく、さわると肋骨がはっきりわかります。この写真は、片手で重いカメラを持って撮影したのでさらに乳頭がアンバランスに見えますが、撮影が斜め上からなので、ここまで高さが異なるというわけではありませんが。形成外科の先生からは、将来的に脂肪幹細胞を移植することもできると言われていますが、一般的な脂肪注入ではなくて、専門のクリニックで100万単位のお金のかかる幹細胞注入の方法でないと、3か月ほどでまた体に吸収されてしまうらしいです。
 傷口はさすがに2年経つとだいぶきれいになってきています。ただ、左側(写真では右)の切り始めのところはまだまだ赤いケロイドですね。乳頭はかなり沈んできています。再建乳房に慣れてしまって、最近は保護キャップをつけるということはまったくありません。昨年夏は暑くてそれどころではありませんでした。刺青の色もかなり薄くなって、乳頭再建のときの切れ目がよく見えます。また、この2年間で約2キロ体重が増えたので、その分、乳房も大きくなっている感じがします。
2012_2_26_7

不満をあげればきりがありません。アンダーの位置もそろっていませんし、左右の大きさも違います。でも、目をつぶってこの胸にさわったときに、お医者さまでなければ、これが再建だと気づく人はいないでしょう。(乳頭の触り心地は少し違いますが。)いつもはブラで隠していますが、これがあるので薄着もできます。お腹の傷は大きいけれど、お腹からもらった脂肪が胸で生きています。

シリコンが良いのか、自家組織が良いのか、これは、AのほうがBより良い、といった問題では全くありません。それぞれのライフスタイルや考え方で決めることだと思います。あるいは、両側か、片方か、ということも考慮の中に入るかもしれません。誰もが自家組織で再建すればよいとは思っていません。私のような例もありますよ、ということをお知らせしたくて、再建2年を機に、振り返る写真を何枚か載せてみました。今、乳房再建を考えていらっしゃる方の参考になれば、とてもうれしく思います。

2012年2月27日 (月)

ウォーキングですれちがうおじさん

自宅から最寄りの駅までゆっくり歩くと15分くらいです。乳がん全摘のあと、乳房再建のあと、子宮全摘のあと、それぞれ、退院して自宅療養に入ってから、家から駅まで歩いて、また帰ってくるのをリハビリの一環にしていました。ゆっくり歩くと15分の道のりも、当時ですからもっとかかります。からだをかばいながら、ゆっくり歩くと、通勤のときとは違うものが見えてきます。

そのおじさんもそうでした。きっと脳梗塞の後遺症なのでしょう。左半身がマヒしていて速く歩けずに、でも一生懸命ウォーキングしていました。そのおじさんと、毎朝(といっても午前10時ころ)いつもすれちがうか、私が追い越すか、いずれかでしたが、出会いました。私もそのおじさんも駅に向かって左側の歩道を歩いていました。術後とはいえ、私のほうが歩くのが少し速かったので、「おじさん、がんばって」と心の中で声をかけて追い抜いたりしていました。

駅にたどりつくとひとつ楽しみがありました。それは、駅前のドトールでコーヒーを1杯飲むことでした。ちょっと一息つきたいサラリーマンや近くの公園に来た奥さんグループなどで込み合うドトールで、1杯飲んで、「早くリハビリして、職場復帰しよう」と思いながら同じ道を引き返すのでした。そんなある日、そのおじさんがドトールに座ってコーヒーを飲んでいることに気づきました。年齢も病気も違うけれど、あのおじさんもがんばって毎日歩いて、ここでコーヒーを1杯飲んで、また歩く練習をしているんだわ、と思い、なんだかうれしくなったことを覚えています。その後もそのおじさんを何度もドトールで見かけました。そのうち、私は自宅療養期間を終えて職場復帰し、その時間にドトールに行くこともなくなりました。

あれからまる1年。胸の疼痛や左腕の浮腫の不安などはあるものの、今では黄色信号を走って渡ったりできますし、歩くことに不安を感じることはありません。

つい先日。お昼までに出勤すればよい日だったので、駅に向かってゆっくり歩いていました。そうしたら、あのおじさんがこちらに向かって歩いてくるのです。まだまだ左腕も左足も不自由です。でも一生懸命歩いています。あのころ毎日見かけたおじさんだと、すぐにわかりました。今日も歩いているんだ、と思い、なんだか胸がいっぱいになりました。「おじさん、がんばってください。応援しています」と心の中で声をかけてすれちがいました。

毎日すれちがっていたけど、あのおじさんには私はわからなかったでしょう。それとも、「おう、あの頃はつらそうに歩いていたけど、今はずいぶんと元気そうじゃないか」と思ってくれたでしょうか。

2012年2月25日 (土)

子宮と両卵巣全摘手術からはやくも1年

2月は2年続けて入院していて、この時期に自宅にいるのは2年ぶり。
2010年2月は乳房再建、2011年2月は子宮筋腫の全摘手術だった。
そのころはちょうどブログをお休みしていたのでリアルタイムでの更新はしていないが、ブログを再開した2011年9月のエントリーにいくつかそのときの様子を思い出して書いた。

私の手術の特徴と言えば、乳房再建で開いた、おへそ下の長い横一文字の傷を1年ぶりに開いて、そこから子宮と卵巣を取りだした、というところ。通常はおへそ下から縦に切るところを、「十文字はいやだ」という私の希望を、形成外科主治医Y医師が、婦人科主治医T医師に伝えてくれ、2人体制での手術が実現した。これも、自家組織で再建している私にとっては、大切なことだった。

子宮と卵巣がなくなったので、「婦人科はこれで卒業だね」と言われて、退院後1回だけ外来診療があったが、それ以降は検診もない。…もう、見るところもないということ。それ以降の乳がん治療の変更や副作用については今まであちこちに書いてきた。

退院間近にひどい蕁麻疹が出て退院が伸びたが、手術後などに蕁麻疹が出ることは珍しいことではないということもそのときに知った。人間のからだは本当に繊細にできていると思う。

形成外科主治医Y医師は、「そうなんですよ。人間のからだがきちんと動いていることは実は奇跡に近いんですよ。誰でも何らかの不具合があってもおかしくないんですよ。」とよく言っていた。

昨年2月21日子宮と卵巣全摘手術。最初の3日間は痛みが強かったが徐々に改善。退院間近の蕁麻疹のために入院が少し長引いたが3月3日の雛祭りの日に退院した。1年経って、穏やかに過ごせていることに感謝の気持ちでいっぱい。

2012年2月15日 (水)

誕生日が3つあります

今日は、私の3つめの誕生日です。

1つめは、生まれた日。オリジナル誕生日。11月。
2つめは、両方の胸を全摘した日。6月。パートナーT氏が私の手を握って、「新しい女になったね」と言った日です。本人は忘れているでしょうけど。私には強烈な印象として残っています。乳がんの苦しみも、すべて含めて、生まれ変わったように思いました。

3つめが、今日です。2月15日。新しい胸が私に来た日。

1年に3歳ずつ年取っていったら困るのですが、私にとってこの3つの日は特別な感慨があります。ハッピーバースデー、私の胸。今日で満2歳。ずっと一緒に生きよう。

2012年2月13日 (月)

両側乳房再建からもうすぐ2年

ちょうど2年前。2010年2月12日に入院。15日に再建手術を受けた。
はやい!もうまる2年。

私の再建は、遊離腹直筋皮弁と言われるもの。お腹を真横に大きく切って、血管をつけたまま脂肪を取り、胸を開けて脂肪をおさめ、胸の血管とつないだ。(このあたりのことについては、過去のエントリーにかなり詳しく書いているので、参考になさってください。)

現在の状況は、というと、見た目から言うと、切ったケロイドの傷はまだまだ赤い。お腹は、再建手術の1年後に子宮と卵巣の全摘手術で再度開けたので、傷は1年しかたっていないが、こちらもまだまだしっかりケロイドになっている。

乳房の形も、左右が必ずしも同じではないし、バランスも必ずしも良くはない。でも、これがあるということが、どんなに心の支えになっているか。はかりしれない。

自家組織で再建したので、なんの不安もなく手をあげたり、肩を回したりできる。お腹の脂肪が、しっかり胸になってくれた感じがしている。

バンクーバーのオリンピックで、日本女子のカーリングチームが活躍したり、アイスホッケーでアメリカとカナダが激突したり、そんな様子をベッド脇のテレビで見ていた記憶がある。早いものです。無事に過ごしていられています。ありがたいことです。

近いうちに写真をアップして報告します。

2012年2月12日 (日)

友達が旅立って1年

最初の入院のときに同室だったHさんが旅立ったのは、昨年の今ごろだった。

(彼女のことについては、このブログでも何度も書いている。)

Hさんは、2010年秋に友人と旅行。すでに、宣告された余命より長く過ごしていた。旅行から帰ってきてから急に体調を崩した。脳転移が増え、大きくなっていたそうだ。私は、その年末はほぼ毎日お見舞いに行っていた。いろんな話をしてくれた。子供の頃のこと。母親のこと。兄弟のこと。病気になってからのこと。仕事が終わって駆けつけて午後8時ころ。面会時間が終わる9時までの1時間が私たちの時間だった。いつも待っていてくれた。帰りがけにいつも「また来てね」と言ってくれていたのは、うそではなかったと思っている。

パートナーと一緒に行ったことが1度あった。彼は、私が入院しているときに毎日病室に来てくれていたのでHさんとは顔見知りではあったが、もう一度きちんと紹介したかった。その日、私がさきに病室について、あとでパートナーが来るというとき、私が彼を病棟のエレベータ前まで迎えに行ったことがあった。病室に戻ってみると、髪がほとんど抜けた頭にきれいなピンクの毛糸の帽子をかぶり、すこし上気した顔をして、にこやかに、パートナーを迎えてくれた。その気持ちが、うれしかった。

年末に退院して自宅療養となった。緩和ケアの病院も予約していたが、まず自宅に帰りたいという強い希望があった。左腕と左足が服が入らないほど浮腫んでしまい、退院のその日にたまたま私が毛糸のルームソックスをお土産に持っていったら、息子さんが、「いやぁ、助かりました。服のことは考えてましたけど、靴下まで考えてませんでした」と言って、その、クマさんのついた茶色いゆるゆるのルームソックスをはかせ、それから4人がかりで車椅子に乗せ、息子さんが玄関前につけた車になんとか乗せて、走り去って行った。

年が明けて、お正月に友人と一緒にご自宅にお見舞いに行った。本当はお酒が大好きだったHさん。お嬢さんが、「お正月だから」といって、350ミリの缶ビールを用意してくれていた。それを、4人で4つのコップに分けて飲んだ。彼女のコップにはさかずき1杯ぶんくらい入っていたかな。もう、話が時々ずれてしまうような感じだったが、ビールを一気に飲んで、「おいしい」と言った。お土産に持っていったイチゴ大福を「かわいいね」といってひとくち食べて、かみあわない話を1時間くらいして、「来月来るね」と、1ヶ月後の2月の6日にお見舞いに行く約束をして帰った。

その約束の1ヶ月後のその日が、彼女のお通夜になってしまった。友人と2人で参列し、帰りに、彼女の写真をテーブルに置いて、3人で、飲んだ。

もう1年がたつ。時間のたつののはやいことに驚くばかりだ。近いうちに、また2人でおまいりにうかがう。遠くに行ってしまったHさんだが、今でも私たちを見守っていてくれる気がする。ときおり、街中や、病院で、似た人を見かけることもある。そのたびに、Hさんは現実にはいなくなったと自分に言い聞かせる。彼女をそうやって思うたびに、悲しい思いと、温かい思いの両方を感じている。

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