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2010年10月

2010年10月17日 (日)

リレー・フォー・ライフの紫のリストバンド

少し前のことになるが、リレー・フォー・ライフ in Tokyo に行ってきた。10月9日(土)は大変な雨で、会場のお台場潮風公園に着いた午後4時ころは、すでに地面は水浸し。テントの屋根からときどきジャーッと水が流れ落ちるような天気だった。これまで準備されていた方々が気の毒だった。

初めて訪れたが、受付の方々もみな明るく親切で、「患者です」と言うと「無料です」。その分を寄付の箱に入れてきた。鮮やかなパープルのバンダナとリストバンドをいただいてすぐに腕にはめた。

ルミナリエにがん友の名前とパートナーT氏の名前を書いてハートマークをたくさんつけて、係の方に託した。一緒に行ったがん友と「一回りだけはしようよ」と話して、びしょびしょに濡れながら、会場を一回り歩いた。

乳がんだけのイベントと違って、性別も年齢層もさまざまな方がいて、励まされた。ご夫婦やカップルで参加している方、仕事帰りのようなスーツで参加している方、それぞれの思いを抱えながらここへ来て、勇気と、思い出と、温かい気持ちをオーラのように発信していると思った。

暖かい服装で行ったつもりだったがとにかく風雨が強く、着ていた服がびしょぬれになってしまい、ルミナリエ点灯の直前に会場を出た。風雨をしのげる場所がなくて残念だった。この天気だと、具合のすぐれない方は無理だったろう。来年の好天を祈って会場を後にした。

ゆりかもめに乗ると、もう、別の世界のよう。ほんとうに不思議な感覚だ。買い物帰りの人や外国人観光客で込み合う車内で、私たちはリレー・フォー・ライフと病気のことを静かに話していた。「来年も元気でまた一緒に来よう」と2人で約束した。

会場で頂いて右手首につけたパープルのリストバンド、先週のCT検査のとき以外は24時間ずっと着けている。そこには、一番大きくHOPE と書かれていて、少し小さい字で RELAY FOR LIFE JAPAN、 さらに小さい字で JAPAN CANCER SOCIETY と書かれている。もうしばらく外さずにいようと思っている。

2010年10月16日 (土)

新しい人間になること…

テレビで、食道がんから生還された小澤征爾さんの指揮風景、インタビューを拝見した。

彼は言っていた。「病気をしている間、時間がありましたので、楽譜を十分に勉強できました。病気をするまでは時間に追われていましたが、病気をして、ゆっくり楽譜を勉強する時間ができました。そして、私には(私の新しい解釈を)弾いてくれる人たちがいます。うれしいことです。」

それを見て思った。「小澤さん、確かに、そういう表現の仕方があるかもしれませんが、おそらく、現実は違います。小澤さんはこの病気を経て、<今までと違う人間>になったのだと思います。時間がある人みなが、小澤さんと同じような体験ができるわけではありません。何が小澤さんにそう思わせたのか。おそらくがんという病気でしょう。この病気が原因となり、小澤さんは今、違う人間になったのでしょう。それゆえに、あなたのタクトのひとふりひとふりが、命をほとばしらせているのだと思います。」

テレビのインタビューで小澤さんはさらりとこう言っていた。
「残された時間を大切に使わなければいけないと思う。」

このテレビの音楽番組のキャスターは「これからの小澤さんに期待したい」と言った。それは、今までの延長線上にいる小澤征爾さんではなく、違う人間、新しい人間としての小澤征爾さんに期待しているのだろうと思った。

**********************************************

ややこしい書き方ですみません。私が言いたいことは、あらゆるがん患者は気持ちを共有している、ということです。そのがんの程度がどのようなものであれ、がんの種類がどのようなものであれ。そして病気になる前とは全く違う、「新しい人間」になるのだということです。

そして、幸いにして、今、動けるがん患者たち、これは、小澤さんのような有名人も、私のような普通の人間も、みなそうですが、病気により動けない仲間たちのために、私たちが共有する気持ちを伝えることを、何か、していかなければならないと強く感じています。

2010年10月15日 (金)

乳がんの「経過観察」

昨日は、仕事を早退して夕方病院に行き、術後初めての胸部CT検査を受けてきた。

今日は検査のみで、外来は来週となる。鎖骨上のしこりを見てもらいたい気もするが、来週乳腺外科主治医D医師に会えるのでそれまではおとなしくしていよう。

久しぶりのCT。前回と同様に、造影剤を注射してからだがかぁっと熱くなって、そして、「息を吸って~、止めて~、はい、楽にして~」と録音の声が聞こえ、機械の上部にある人の顔のマークが息を吸ってふくらんだり、息を吐いて楽になったりする。

乳がん2年生になったばかりの私。3か月に1回の腫瘍マーカーと1年に1回のCT、骨シンチはどのくらいの頻度だったかしら。このくらいの様子で経過観察を続けて行けたら本当にありがたい。そして、いつか「経過観察も必要ない」と言われるような状況を迎えたい。そうなる、と信じて、明るく過ごして行きたい。

まずは、来週の外来で明るい顔で乳腺外科主治医D医師と3か月ぶりの再会だ。

2010年10月14日 (木)

「がん患者の〈幸せな性〉」について

「がん患者の〈幸せな性〉」という本をご存知ですか。私はこの本にとてもとても救われました。(←左の書籍案内をご覧ください)

がんになって、聞きたくても聞けないことがたくさんできました。ネットや書籍で情報を得ようと試みましたが、なかなかありません。いろいろな検索ワードで検索し、ようやく見つけてアマゾンで購入したのがこの書籍でした。書店で手に取ってみるのがちょっとはばかられる本でも、アマゾンでなら気兼ねなく購入できます。

この書籍について紹介したいことはたくさんあるのですが、私がいちばん知りたいことが表になって載っていて本当にうれしかったのです。こういうことががん患者のQOLに大切だという考えのもとに、きちんと追跡してデータを取り、患者に情報提供してくれる人たちがいるということが有り難くおもえました。その表の一部を転載させていただきます。携帯でこのブログを読んでくださっている方は表が見えにくいかもしれません。すみません。ぜひPCでご覧になってください。下の小さな表をクリックして頂けると、別ウィンドウで大きな表が開きます。

Cancer_2

 「がん患者の〈幸せな性〉」 アメリカがん協会編、高橋都&針間克己訳
                                                                春秋社 (p.46)より抜粋

子宮の全摘と卵巣の切除については参考までに載せました。手術前の私にとって一番ほしかった情報は「化学療法」「乳房切除、放射線照射」でした。そして、術後に「ホルモン療法」を受けることになり、「タモキシフェン療法」についての情報も貴重となりました。

これを見ての反応・解釈はそれぞれの女性の年齢や家族状況などによって異なると思います。私は子供を望むことができる年齢をとうに過ぎていましたので、これを見て、全体的には励まされたと感じました。「不妊」を除いては、なんとか対応できる状況ではないかと思ったのです。

この本を手術前に2冊購入しました。1冊はパートナーT氏にプレゼントしました。「読んでね」と言ったら「はいはい」と言っていましたが、どうなりましたか。

・・・この話題はまだ続きます。もう少しお付き合いくださいませ。

2010年10月13日 (水)

お互いをいつくしむ時間

乳がん告知から手術までの期間は、病気の状況や病院の混み具合などにより大きく異なると思います。私の場合、告知から手術まで2か月近くありました。この間に、自分の病気の状況を把握し、全摘か部分切除か、再建をどうするかなど、考えることがたくさんありました。

また、術後の自分をイメージトレーニングしていました。術後の胸の様子を想像し、パートナーT氏との変わらぬお付きあいを想像しました。お互いに忙しい仕事だったので、特別なことが迫ってきている状況の中でも、頻繁に会うことはできませんでした。でも、毎日携帯メールを交換していました。不器用な中年のおばさんとおじさんのカップルが毎日「おはよう」から「おやすみ」まで携帯メールを打っているのは、今になって思えば何となく可笑しい感じもしますが、あの頃は本当に大切なコミュニケーションの手段でした。

長いようであっという間に過ぎてしまった手術までの2か月間にパートナーとの絆を深めることができたと思います。からだのつながりについても、忙しい中でも、お互いをいつくしみ、愛し合う時間をなるべく持つようにしました。私の姿を覚えておいてもらえるように。昼間は泣かない私でしたが、夜、彼と一緒にいるときは見つからないように涙を流していた記憶があります。仕方ありませんね。泣きたいときには泣くしかないです。

でも、かならず乗り切れます。自分を信じてひとつひとつ決めて行きたいものです。

2010年10月12日 (火)

胸がなくなっても…

乳房や子宮は女性のシンボルのような受け止め方が強いですね。古今東西の裸婦絵画を見れば納得します。乳がんにかかったとき、両方の乳房をを失うことは女性性が半減してしまうような恐怖を感じました。頭ではそんなことないはず、とわかっているのですが、感情ではそうは行きません。

付き合って半年。50歳を目の前にしてようやくこんなに気の合うすばらしい男性にめぐり合えたのに。今後、胸のない私、術後の治療が続く私でも、彼は以前と同様に愛してくれるだろうか。精神的な愛情と肉体的な結び付きの両面で不安を感じました。何せ、お付き合いを始めて7か月です。

乳房は特別なもの。羞恥心を感じさせる体の部位。彼と私の大切なもの。その大切な乳房が病気を理由にあたかもモノのように医師や、看護師や、検査技師や、いろいろな人たちの目にさらされ、触れられ、処置され、「客観的な話」の対象になることが苦痛でした。センチネルリンパ生検を受けたときに乳輪の周囲に注射をした医師が、「痛くてごめんね。だって、両方だものね」とにやにや笑って言っていたのを、内心は「許すものか」と思いましたが、反発する気力もありませんでした。

胸がなくなっても、彼には変わらず愛してほしい。からだの結びつきをなくさずにいたい。病気発覚後のバタバタの中でも、それだけは心配で、一所懸命ネットや書籍で関連の話題を探しましたが、情報が本当に少なくて、答えを教えてもらえない問題練習を繰り返し解こうとしている学生のような気持ちで毎日を過ごしていました。

乳がんが発覚したばかりの女性の多くはこのような気持ちを持つのではないでしょうか。

2010年10月11日 (月)

交際9か月で胸を失う

この病気になるまでは、きれいな言葉で言えば「ふくよか」、有り体に言えば「太め」の体型を維持(?)してきました。胸も小さい方ではありませんでした。

両側乳がんを発症したとき、まだ交際半年。右は非浸潤だったものの、がんが乳房の上部ほとんどを埋めているという大きさ(主治医D医師談)のため、問答無用で全摘の宣告。左は浸潤ではあるが、温存も可能と言われ、セカンドオピニオンにも行き、悩んだあげくやはり全摘を決意。このあたりの経緯は何度もこのブログに書かせて頂きました。

T氏と2人で「病気モード」で話し合いをしているときには、胸の話なのか、指の話なのか、足の話なのか、わからない冷静さです。でも、「嘆きモード」になると、これから失うものは2人を肉体的に結びつけているものだ、ということを、どうしても実感してしまいます。言葉は正確に覚えていませんが、「胸、なくなっちゃうんだけど、いいかな」みたいなことをT氏にたずねました。彼は、「あなたの胸が大きかったからあなたが好きになったのではなく、好きになったあなたの胸がたまたま大きかった、というだけだよ」と笑って言ってくれました。

それを聞いて、この人と一緒に病気を乗り越えていきたい、と思いました。

でも、もちろん、このあと2人の結びつきはどうなっていくのだろう、という不安は強く持っていました。乳がんを発症したばかりの女性ならどなたでも持つ不安だと思います。私も例外ではありませんでした。

がんのこと、治療のこと、胸をなくすことなどを考えながら、始まったばかりの恋愛関係についても考える。当時の私の頭の中はきっとオーバーヒートしていたのだろうと思います。

2010年10月10日 (日)

交際して7か月で発病

パートナーT氏に最初に会ったのは仕事の場。「いい人だな~」と思いました。でも、その後は1年に1回くらい、メールのやりとりをするくらい。「転勤しました。」「いかがお過ごしですか。」「お元気ですか。」そんな2,3行のメールが行ったり来たり。何年かまったく音沙汰がないこともありました。

それが、3年前に「一緒に食事でも」というメールが来て、とても久しぶりに再会し、そのときに彼の病気(膀胱がん)について聞きました。さらに1年間ごぶさた。そして一昨年の9月に「また、一緒に食事でも」というメールが来て、1年ぶりに食事。それがきっかけでお付き合いするようになりました。

熟年(?)、中年(?)のカップルとして、楽しく過ごしていた矢先、昨年4月に私の乳がんが発覚しました。真剣にお付き合いするようになってまだ半年でした。どうしよう、と思いました。こんなことがあるのか…と思ってしまいました。でも、彼は全く動じずに、受け止めてくれました。「クロらしいという電話がかかってきたときは足ががくがくしたけどね」などと、あとで言っていましたが。

それはそうでしょう。彼は数年前に大切な家族を脳腫瘍で見送っていたのでした。看病とお別れ、自分の発病と手術、そして私の発病。「またか」と思ったのではないかと想像します。でも、彼は、私の病気を受け止め、一緒に考えてくれました。交際して半年、というのは、微妙な時期だったと思います。親しいけれども、すべてを知りあっている訳ではない。遠慮もある。そんな時期に私の病気が発覚し、2人の絆は急速に深まったと感じています。

あれから1年半。今も変わらぬ彼の温かさに、心から感謝する日々を送っています。

2010年10月 9日 (土)

パートナーはがん友

「乳がんと恋愛」という新しいカテゴリーを作りました。乳がん患者として恋愛することについて、少しずつ書いていきたいと思います。

パートナーT氏と知り合ったのは14年と少し前。真剣にお付き合いするようになってから2年と少しです。

彼もがん患者です。お付き合いを始めたとき、彼ががん患者だということはわかっていました。お付き合いを始めて半年後に今度は私の乳がんが発覚しました。

私たちはがん患者同士のパートナーです。お互いに「どちらかが死ぬまで一緒にいましょう」ということになっています。(過去エントリ「支え合って生きていきたい」参照ください。)

とても強い絆と、安心感を感じています。彼と知り合えて本当に幸せだと感じています。彼はがん患者4年生、私は2年生になったばかり。これから先、どちらかが再発するかもしれないし、二人とも再発するかもしれない。二人とも再発せずにそこそこ長生きできるかもしれません。今は何もわかりません。でも、死ぬまで一緒にいよう、と思っています。

2010年10月 8日 (金)

重い病気の友人

遠くに住む友人が1型の糖尿病と診断された。

彼女が救急車で運ばれたこと、1か月以上入院していたこと、最近ようやく職場復帰を果たしていたこと、何も知らなかった。

私が昨年乳がんになったとき、彼女はまだとても健康で、期待していなかったようなハイパーな反応をして、それが私には逆にとても負担で、乳がんを告白しなければよかったと思ったくらいだった。その後、ずっと連絡をとらなかった。私の治療の方針が固まり、ある程度落ち着いたところで少しずつ連絡を復活させていき、この夏に彼女が大変な状況だったことをごく最近知った。

1日に4回自分で採血して血糖値を測り、自分で注射を打ち、厳しい食事制限に従って、野菜で空腹を満たす「スーパーモデルみたいな食事」をして、そのうえで職場に復帰した彼女。「退院した時にようやく安定していた数値が、職場復帰したとたんにめちゃくちゃになってしまったの。」と彼女。「体重が40キロになってしまったよ。」久しぶりの電話でそんなことを聞くとは。

病名は違うけれど、一生抱えていくものをお互い背負ってしまった。がんも大変な病気だが、彼女の病気も、聞けば聞くほど制限がきびしくて、憂うつになりそうだ。これからはもう少しひんぱんに連絡をとって、電話で声を聞いて、励まし合って行こうと思う。

2010年10月 6日 (水)

私は抗がん剤も放射線もしていない

今日は、少し前向きな記事を書きたいと思う。最近ついつい自分の状況をネガティブに考えてしまうので。

私は両側乳がん全摘で、術前も術後も抗がん剤をしていないし、放射線も受けていない。そういう選択をした。

手術前の乳腺外科主治医D医師の診断では、右は非浸潤だが大きいので全摘しかない。左は直径約2センチ、温存も可能。

この左側の乳房をどうするかで非常に悩んだ。セカンドオピニオンにも行った。セカンドオピニオン先では、「温存しかない。温存できるものを全摘する必要はない。」と言われた。しかし、同時に「温存して、放射線。もしかすると、術後の抗がん剤も必要。」と言われた。

そこで非常に悩んだ。結論は、左も全摘だった。その結果、D医師からは放射線の必要はない。さらに、術後の抗がん剤の必要も認めない、と言われた。結果として、2009年8月からタスオミンとリュープリンという、ホルモン治療のみで過ごしている。(←術後半年のエントリ「全摘か?温存か?」参照ください)

温存なら間違いなく放射線が後に続く。私は全摘することで、放射線を回避し、さらに、再建という形で新しい乳房を手に入れることができた。術後1年4か月で再建も終了した現在でも、この選択は間違っていなかったと感じる。両方の胸をなくすことは大きなショック・喪失感をもたらしたが、それでも、この方法は自分に合っていたと思う。再建にはかなりの時間がかかったが、一歩一歩再建への道を歩むことががん治療の一里塚となった。

放射線と抗がん剤を回避できたことで、QOLは高く保たれた。このあと再発・転移するか、しないか、それは今はわからない。今も鎖骨の上には小さなつるつるしたしこりがある。しかし、最初の手術で放射線が回避できたという点だけでも、「全摘・再建」は、十分考慮に値する選択なのではないかと思う。

    

2010年10月 5日 (火)

オオカミ少年のように…

2月に胸にしこりができたとき、パートナーや家族、病気を知っているごく一部の友人や同僚に話しました。細胞診の結果良性とわかり、連絡すると皆喜んでくれました。今回、またしこりができてしまいました。今度は別の場所です。今回はパートナーと家族だけに言いました。友人や同僚には言っていません。

だんだん、平然としていることが当然に思われてきて、細かい心配事とか、不安とか、言っても仕方がないと思うようになってきました。

よほど近しい人でないと、このような不安感を共有してもらうことはできません。「ほら、また言っている」と思われてしまうのではないか、と心配になってきます。

昔話の「オオカミ少年」は、退屈な少年が「狼が来た!」と騒ぎたてるたびに大人が振り回され、少年を信用しなくなり、本当に狼が出たときには誰も信用せず、結局村の羊が食べられてしまった…といった話だったと思います。つまり嘘つきはだめだよ、という意味です。

本当は全然違うのですが、なんだか、自分がオオカミ少年みたいに見えてきます。体調の不安について口に出していると、本当に具合が悪くなったときに相手にしてもらえなくなるのではないかと…。今、どこまで口に出していいのか、わからない感じ。

考えすぎですよね。でも、同じ病気の方だったらわかって頂けるのではないかと…。

こういうことを考えているから、結局のところ病気そのものを隠すことになってしまうのかな、と思います。

2010年10月 4日 (月)

読んで頂き感謝します

昨日の記事をアップしてから、たくさんの方に読んで頂き、また、たくさんの方に「ポチ」をして頂き、感謝しています。

私はコメント欄を開けていないので、読んでくださった方々と直接言葉を交わすことができません。アクセスカウンターの数字と、「ポチ」として下さる方の数、そしてブログ村から私のブログにやってきてくださる方の数を見ながら、「今日はずいぶんたくさんの方に読んで頂き、励まして頂いた」と感じています。本当にありがとうございます。

乳腺外科の外来までまだ2週間以上あるので、これが良性のものであることを強く念じながら過ごします。

それにしても、「いたちごっこ」ですね。この病気になると1人残らず、もれなく皆同じ不安感を共有しますよね。厳しいですね。

こういう気持ちを「早期発見すれば治るのに」のような単純なピンクリボンのキャッチフレーズで汚されたくないです。そんな簡単なものではないです。

*私がコメント欄を開けないのは、コメントを頂いても、それにお返しをしたり、またこちらから訪問したり、といったお作法を守ることが、時間的、体力的、精神的に無理だと思っているからです。ブログを不定期に更新するだけでいっぱいいっぱいです。そんなブログにこんなにたくさんの方々に訪問して頂き、本当に感謝しています。ありがとうございます。

2010年10月 3日 (日)

また小さなしこりが出現…

何気なく首のまわりをさわっていたら、小さなしこりが指に触れた。左の鎖骨の真上。痛みもなく、触ると表面はつるつるしており、押すと上に、下に、よく動く。

乳房再建手術の前には左胸の腫瘍があった場所の近くにしこりができて、細胞診の結果、良性であった。(←左のカテゴリーから「再発の不安」の各記事を参照ください)

あれからちょうど10か月。7月の血液検査では腫瘍マーカー CEA ⇒2.4 (基準値5以下)、CA15-3 ⇒7.2 (基準値30以下)だった。何でもないと思っているが、つい触ってしまう。いやだなぁと思う。

2週間後が乳腺外科でのCT検査、その翌週が乳腺外科外来。久しぶりに会う乳腺外科主治医D医師にまた相談してみよう。

何でもないと思っているけど、この病気に常につきまとう、不安である。

2010年10月 1日 (金)

10月は嫌い

病気になって10月が嫌いになった。

10月は乳がん月間。

昨年の10月1日。検索をしようと開いた Yahoo Japan のトップ画面を見て、何事かと思った。今年は開かないように気をつけていたのに、つい調べ物をしようと開いてしまった。またピンク攻撃にやられてしまった。

とても不快だ。

昨年10月、どこかの駅を降りたら、駅前広場の柱がすっかりピンク色の布に覆われていたことがあった。

とても、とても不快だ。

どうも、ピンクリボン運動の多くの部分が、本来の目的からはずれているような気がしてならない。

毎年9月は「がん制圧月間」だ。この1か月に乳がんをはじめ、胃がん、肺がん、大腸がんなどについての啓蒙活動ができるのではないか。なぜ、乳がんだけが、見せしめのように特別扱いされる?乳がんを特別に宣伝することはそんなに経済効果があるのか。

本当に嫌。病気はお祭りではない。

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