ランキング投票

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

Furries' Books

お買いもの

  • 医学書なら…
  • カップ付キャミソールなら…

ここを訪問してください

  • みんなでつくろう!がん医療のドリームチーム
無料ブログはココログ

2012年8月15日 (水)

初めての整形外科外来

乳腺外科主治医D医師の紹介で、院内の整形外科を受診した。

今年になってから、下半身の痛みとしびれが出ており、ひどいときには、10分ほどの距離が歩き切れないときがあった。整骨院に行くと、「椎間板ヘルニアの予備軍かな~」とか、「脊柱管狭窄症かな~」とか、いろいろと言われた。

今回の乳腺外科の外来で、おたずねしてみた。症状が、「脊柱管狭窄症に似ている」とのことで、整形外科を受診してください、と言われた。ただ、私としては、自宅近くの整形外科を知らないし、できればカルテを共有してくれるこの病院内で受診したかった。そこで、思い切ってそうお願いした。すると、D医師は気さくに「いいですよ」といって、院内の整形外科初診外来に予約をとってくれた。

乳がんの友人が、背中の痛みで1年間も自宅の近くの整形外科に通い、「神経痛だ」と言われ続けて、もうがまんができないほどの痛みになってこの病院に緊急搬送され、ようやく院内の整形外科でMRIを撮ったら、頸椎に転移していた、ということは最近、このブログでも書いた(←「友人の入院」エントリー参照ください)。

私は今のところ再発も転移もしておらず、「低リスク」に入っているということではあるが、体に痛みやしびれがあると、必ずそのことに思いが至る。だからこそ、院内で連携が可能なところで受診したかった。

8月第1週に、その整形外科を受診した。若い医師で、とても感じの良い先生だった。私の痛みの特徴は、歩いていると腰から下が痛み、両足がしびれてしまう。そして赤信号で休んだり、すこし立ち止まったりすると少し良くなってまた歩けるようになる、というもの。これは、「間欠跛行(かんけつはこう)」と言って、脊柱管狭窄症によく見られる症状だそうだ。ただし、「乳がんは、骨と相性が良いので、骨転移による痛み、あるいは腰椎の変形が起こっている可能性も否定はできないので、まずはレントゲンを撮りましょう」ということで、レントゲンを何枚も撮り、その後もう一度診察があった。とりあえずわかったことは、「腰椎の4番が前に飛び出していること、そのために、神経がそれに伴って曲がってしまい、痛みが出ていること」だった。この飛び出し方の重度は、「初期から中期の間くらい」ということだった。ホルモン治療のアロマシンの副作用が関わっていることも否定はできないと言われた。

この後、神経がどのくらい曲がって、どのくらい骨に押されているか、これはレントゲンではわからないので、MRIを撮りましょう、ということになった。検査はお盆明け。

骨量が下がって骨が弱くなっていることは間違いがないので、この後、この症状が悪化しないようにするにはどのようにしたらよいのか、それも含めてきちんと聞いてきたいと思っている。副作用のサイクルが続いていることを感じるが、できる範囲の中で最善の対応をしていきたい。

2012年7月22日 (日)

ホルモン療法副作用のサイクル・・・今度は骨粗鬆症

昨年(2011年)2月末に子宮と卵巣を全摘出したので、事実上閉経が確定。タスオミンとリュープリンでの治療もそこでストップ。

閉経後に利用されるアロマターゼ阻害剤「アロマシン」に変更。飲み始めて1年と4か月ほどになる。アロマターゼ阻害剤の主な副作用として関節痛や関節のこわばりなどがあるが、それ以外に大きなものが骨粗鬆症。

どうも、私もその予備軍に入ったらしい。今週の外来。先週の骨量の検査の結果を聞いた。アロマシンを飲み始めたころから比べて下がってしまい、乳腺外科主治医D医師がめずらしく眉をひそめて「低いですね~」とのこと。エックス線を使っての骨量検査だが、腰椎で測ると実際より良い数字が出てしまうことがあるので、大腿骨で測定するのだそうだ。パソコン画面に私の左の大腿骨が映っている。そのほかに数字やグラフがいろいろと出ていて、私の年代の人の骨量の正常値の下限にぎりぎり乗っているか、そのすぐ下に×印がついている。あれ~、という感じ。牛乳はやめてしまったが、バランスの良い食事、ウォーキングなど、気をつけてきたからだ。

これ以上骨量を下げないための治療が始まることになった。ボナロンという経口薬だが、骨転移の点滴薬ゾメタと同じビスホスホネート製剤。あとで調べてみると、ゾメタは、骨転移の治療薬としては保険認可されているが、骨粗鬆症の治療薬としては認可されていない。

同じビスホスホネート製剤なので、副作用も同じ。顎骨の壊死の可能性である。10月からボナロンの投薬を始めるので、それまでに歯科治療をすませておくように、とD医師の指示。虫歯は治療済みだが、気になるところがいくつかある。しかし、昨年から放置してしまっているので早急に始めなくては。

乳がんの再発防止のためのホルモン療法→副作用で骨粗鬆症の可能性→骨粗鬆症悪化防止のためのビスホスホネート製剤→副作用で顎骨壊死の可能性→今度は何が?

乳がん治療のための投薬が副作用のサイクルを生んでいる。骨粗鬆症は厳しい。まだ50代なかば。


・・・これ以外にも気になることが最近あるのだが、それはまだ別に記録しておきたい。8月初旬にその件で、整形外科の初診がある。

2012年6月22日 (金)

友人の入院 (5)

友人が退院した。

結局、オキシコンチン、リリカ、オキノームを組み合わせての痛み対策を継続することになった。
あれだけ苦しんだ痛みが少しでも軽減されて退院できたことは、良かった。

でも、退院した翌日から職場復帰なのだ。

今回の入院で使ってしまい、今年度の有休はあと1週間分しかないそうだ。これは今年度中に外来診療を受けるためにとっておかなければならない。

「欠勤」は年間4日しか認められず、そのたびに1万数千円が給料から引かれ、さらには、その年度の勤務は通算の勤続年数に入れられないという。

このルールを厳格に適用されている彼女は、その、比較的新しい会社で初めての「がん患者」なのだという。「調子が悪そうだから午後から帰りなさい」と社長に言われて帰ったとしても、「半休」はしっかり差し引かれる。

今後その会社に「がん患者」が出たとき、彼女のケースが前例となる。

がんであっても、働かなければ生きていけない。再発治療はエンドレスに続く。治療費も高額である。

「あ~まだ働けると思ったよ」と、職場復帰の翌日に彼女からメールが。「でも今後動けなくなることも考えて、いろいろと今後のことを決めていかないとね。」

彼女が少しでも長く、その会社で勤め続けることができるよう、心から願う。今、私は再発も転移もなく、勤務をすることができている。私たちのように動ける人間が、何かをしていかなければ、とも思う。でも、体力は確実に落ちているので、私自身も仕事を続けることで精いっぱいであり、何かの活動にコミットしようという勇気もなかなか出ない。いつか…とは念じているのだが、忸怩たる思いだ。

2012年6月10日 (日)

友人の入院 (4)

友人の状況が少しずつ落ち着いてきた。

まず、リリカが1日3回、毎食後。オキシコンチンが20ミリグラムを朝9時と午後9時。そして、レスキューとしてオキノーム。

それ以外には、ロキソプロフェン&胃薬、睡眠導入剤、軟下剤。

リリカでは朦朧とする、リリカでは痛みが押さえきれない、リリカを飲んでいるのになぜオキシコンチンは減量にならないの等々、彼女の疑問は途切れなかったが、主治医というよりは、看護師の根気強い説明をだんだんと理解できるようになり、それにともなって、痛みのコントロールができつつある。

昨日はようやく吐き気止めの点滴(ほぼ24時間)がはずれ、少し病院の中を歩けたそうだ。でも、あまりにも体力が落ちていて愕然としたと。

でも、それにしても、よかった。1週間前を考えると、格段の進歩!これから、少しずつ、社会復帰に向けて準備していける気がする。また一緒に乳がんのシンポジウムに参加したり、RFLを歩きに行ったり、できる気がする。

一歩一歩、足を前に出して行こう。私も一緒に歩むから!

2012年6月 6日 (水)

友人の入院 (3)

昨夜も面会に。そっとカーテンを開けると、こちらをみて笑っていた。
「起きてる顔を久しぶりに見たよ」と悪口を言いながらベッドサイドに座る。

朝の痛み止めがリリカになった。リリカでももうろうとなってしまったらしい。
「最悪のまま車椅子に乗ってリニアックに行ったよ。台に上がれないかと思った」とのこと。やっとの思いで放射線治療を終えて、午後から眠ったらしい。

「午後からすこしはっきりしてきた。リリカもだめみたい」
オキシコンチンで嘔吐して、リリカでもうろうとしていたら、痛み止めが・・・。

きっと自分に合った薬の組み合わせと量がわかってくるから、ここは我慢のしどころ。

「このままだと仕事に戻れない」と、すでに職場復帰を思っている彼女。
少し調子が上向いてくると、考えるのは日常生活に戻ること。
何とか、その日が1日でも早く来てほしい。

「早く全快祝いをしようよ」と励ましたつもりが、直後に、「退院祝い」と言えば良かったと後悔する。彼女は「そうだね」と表情を変えない。

ステージIV。リンパ節転移、骨転移(胸骨と頸椎)、胸膜播種。痛みを抑えて今までの暮らしに近い過ごし方ができるように、誰にでもいいから、お願いしたい気持ちです。私の大切な、大切な友人なのです。

2012年6月 5日 (火)

友人の入院 (2)

毎日病院に行っている。
仕事帰りなので、面会時間終了ぎりぎり。
昨夜も寝ているばかりだった。汗をかいている。
それでも、ほんの2分くらい目を覚ました。

「今朝、○○先生が来てくれて、薬の調整は、誰にとっても試練なんだよって言われた・・・。」
オキシコンチンとオキノームをどのくらい飲んだときに痛みが適切にコントロールでき、意識もはっきりし、そして気持ちも悪くならないのか、それを見極めることは誰にとっても難しいことらしい。

「それから、××先生も来てくれたんだけど、こんな程度の量でこんなに具合の悪くなる人はそんなにいないって・・・。」

は? 同じ医師でも、言うことがまるきり違う。具合の悪い人の傷に塩を塗り込むような言い方はしないでほしい。

それだけ言ったら、また眠ってしまった。入院して1週間なのに、ずいぶんやせてしまった。眠り込む顎の線が直線的になってきた。

彼女ががんばっていることが私の支えだった。わかっていたけど、痛いほど実感する。

彼女のお嬢さんと話をする。「Furriesさんは、転移とか、されてるんですか?」と聞かれた。

「いや、ありがたいことに、まだです。」と答えてしまった。言葉の使い方がわからなくて、混乱する。

2012年6月 3日 (日)

友人の入院

私より1年前に乳がんになり、手術→再建と同様の道を歩んできたEさん。
私より少し年下だが、病気については先輩。
患者会で偶然向かい側に座ってから、急速に仲良くなった。
いつも励まし合ってきたのに。
リンパ節転移、肋骨への転移。しかし、頑張って仕事を続けていた。

1年前から背中の痛みが徐々に強くなり、ついに先週入院。
MRIの結果、頸椎の5番と6番に転移していることがわかった。
放射線治療が始まった。

しかし、オキシコンチンとオキノームでも痛みのコントロールができていない。
心配で、心配で。

今日も行ってきたが、汗をかきながら眠り続けている。
時々目をあけるが、またすぐに眠ってしまう。そして生あくびをする。

時々会って、ちょっとお酒を飲んで、励まし合うのが私たちにとっては
大切なことだったのに。

心配で、心配で。

2012年5月29日 (火)

3年クリアしました

しばらくブログを放置してしまいました。年度末仕事がとても忙しかったことと、大きなイベントが終わった後で気が抜けてしまったこともあります(・・・が、そんなことは理由になりません)。

更新がなかったあいだもたくさんの方に読んで頂いていて、本当にありがとうございます。

先月、発病3年を無事にクリアしました。現在は、ホルモン剤(アロマシン)のみの治療です。タスオミンから始めましたが、昨年2月に子宮筋腫摘出手術のときに子宮と卵巣をすべて摘出したため、閉経後治療となり、アロマシンへ変更となりました。タスオミンから数えて2年半。主治医からは5年続けて、そのときにどうするか考えようと言われています。

アロマシンは骨粗鬆症の副作用がありますので、次回の診察では骨密度を測ります。ホットフラッシュ、関節痛は相変わらずです。

でも無事に生活して、仕事に行けていることに感謝しています。これからも時々の更新となりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

2012年3月 4日 (日)

命をつなぐこと

1年前に同じ病気で旅立った友人におまいりするために、1時間半ほど離れた町まで行ってきた。仏間に通され、「Hさん、久しぶり…」とお線香をあげ、ひとしきり、頭の中で会話した。

彼女の一家は3世代同居。お孫さんが大きくなり、さらにご長男が5か月前に生まれたお子さんを見せに来てくれ、仏間はにぎやかな声で満たされた。

彼女は写真の中でやさしく微笑んで、そんな大家族を見つめている。おばあちゃんに見つめられて家族は安心して過ごしている。彼女が亡くなってから、おじいちゃんに胃がんが見つかり、全摘手術をした。そのおじいちゃんも、元気に出てきてくれ、「早いねぇ」と言いながら、仏壇のろうそくに火をつけてくれた。

命をつなぐことの温かさと、大切さを感じる1日となった。Hさんは、この家で少しずつ、少しずつ、毎日の暮らしから離れ、思い出の中だけで語られるようになるだろう。家族の涙は少しずつ減っていくだろう。

それが大事。大事なこと。家族が前を向いて進んでいく。Hさんのあたたかいまなざしのなかで。

心が温まったいい一日だった。

2012年2月29日 (水)

遊離腹直筋皮弁による乳房再建から2年(写真集)

2009年6月に両側乳がん全摘手術と同時に、両側にエキスパンダーを挿入しましたが、1週間後に左側が感染して、退院した時には右側にはエキスパンダー、左側は何もなし、という状況でした。9月に再入院して、左側にエキスパンダーを挿入する手術を行い、その後、左右に定期的に水を足して膨らませていきました。

(1)2010年2月:再建直前(エキスパンダー入り)
左右に280ccずつの水が入っていますが、最初から右側が大きく、左側(感染した方)は小さく感じていました。また、右側が垂れ下がり左側は上に上がっています。写真では左右が反対になります。
2010_2

(2)2010年2月20日(術後5日)
私の術法では、エキスパンダーで胸の皮膚を伸ばしているので、腹部の皮膚は移植しません。ただ、この写真でわかるように、移植後の脂肪への血流が順調であるかどうかを確認するためにほんの少しだけ腹部の皮膚を残しています。これは、乳頭乳輪再建のときに除去されました。
2010_2_20

(3)2010年2月24日(術後10日)
抜糸したところです。脂肪は最初はとてもごつごつした感じですが、だんだんと柔らかくなります。
2010_2_24 

(4)2010年2月28日(退院直後)
内出血はだんだん良くなります。最初は驚きますが、大丈夫です。
2010_2_28

(5)2010年3月17日(術後1か月)
このころに、すでに左右のアンバランスがはっきりわかります。
Photo

(6)2010年5月7日(乳頭乳輪再建1週間)
 私は両側乳がんなので健側からの乳頭移植ではありません。他の場所から皮膚や骨を移植するのではなく、胸の皮膚を星のようなかたちに切って巾着のように絞り、盛り上げて形を作る方法です。あとでかなり沈むのでそれを見越してかなり大きく作っています。初めは注射器を輪切りにしたもので保護し、そのあとも自分なりに乳頭が沈まないような保護キャップをつけていました(過去のエントリーをご参照ください)。
Photo_2

(7)2010年7月13日(乳頭乳輪刺青完了)
 刺青は外来で終了。色がつくとかなり本物らしくなります。
Photo_3

(8)2012年2月15日(再建2年後)
 乳房再建終了から約1年半のようすです。はっきり言って、左右はかなりアンバランスです。エキスパンダー手術のころからあったアンバランスがずっと尾を引いています。右側(写真では左)はどちらかというと横長。左側(写真では右)は外側の脂肪の一部が体内に吸収されてしまったため、外側にふくらみがなく、さわると肋骨がはっきりわかります。この写真は、片手で重いカメラを持って撮影したのでさらに乳頭がアンバランスに見えますが、撮影が斜め上からなので、ここまで高さが異なるというわけではありませんが。形成外科の先生からは、将来的に脂肪幹細胞を移植することもできると言われていますが、一般的な脂肪注入ではなくて、専門のクリニックで100万単位のお金のかかる幹細胞注入の方法でないと、3か月ほどでまた体に吸収されてしまうらしいです。
 傷口はさすがに2年経つとだいぶきれいになってきています。ただ、左側(写真では右)の切り始めのところはまだまだ赤いケロイドですね。乳頭はかなり沈んできています。再建乳房に慣れてしまって、最近は保護キャップをつけるということはまったくありません。昨年夏は暑くてそれどころではありませんでした。刺青の色もかなり薄くなって、乳頭再建のときの切れ目がよく見えます。また、この2年間で約2キロ体重が増えたので、その分、乳房も大きくなっている感じがします。
2012_2_26_7

不満をあげればきりがありません。アンダーの位置もそろっていませんし、左右の大きさも違います。でも、目をつぶってこの胸にさわったときに、お医者さまでなければ、これが再建だと気づく人はいないでしょう。(乳頭の触り心地は少し違いますが。)いつもはブラで隠していますが、これがあるので薄着もできます。お腹の傷は大きいけれど、お腹からもらった脂肪が胸で生きています。

シリコンが良いのか、自家組織が良いのか、これは、AのほうがBより良い、といった問題では全くありません。それぞれのライフスタイルや考え方で決めることだと思います。あるいは、両側か、片方か、ということも考慮の中に入るかもしれません。誰もが自家組織で再建すればよいとは思っていません。私のような例もありますよ、ということをお知らせしたくて、再建2年を機に、振り返る写真を何枚か載せてみました。今、乳房再建を考えていらっしゃる方の参考になれば、とてもうれしく思います。

«ウォーキングですれちがうおじさん